七番神輿について

七番神輿について

七番神輿のおぎおんさぁへの挑戦は、平成2年から始まります。鹿児島県の法人会連合会として県内各地からの会員を募ったり、自動車をベースにした自作の創作神輿を担いだり、さまざまなチャレンジを繰り返すも継続的な事業として展開するのが困難な状況が、長い間、続きました。しかし、「もっと鹿児島を盛り上げたい」「いつか自分たちの神輿を上げたい」という熱い想いは消えることなく、三番神輿のご厚意もあり、三番神輿として参加を続け、神輿の知見を深めていきます。
時は流れ、平成16年に新たな事業として「おぎおんさぁ」に参加しようという話が再度持ち上がりました。そして、初代頭・宮城辰彦を中心に「七番神輿」が立ち上がったのです。
現在の神輿は多くのご支援を賜り、初陣から7年目の平成25年5月19日に建立。その大きさは10基ある神輿の中でも最大級を誇り、神輿本体の高さは約2.7m、幅約1.8m、担い棒を入れると重さは1.2tにもなります。おぎおんさぁ当日、巨大神輿を約500人の男たちが代わるがわる担ぐ様は圧巻です。


躍動する七番神輿

公益社団法人鹿児島法人会は、税のオピニオンリーダーとして国と社会の繁栄に貢献する経営者の団体です。地域社会に対して積極的に貢献、地域の魅力や資源を最大限に活用し、鹿児島の発展と成長を促進することを使命としています。
社会貢献活動の一環として取り組んでいるのが七番神輿事業。神輿を担ぐことや、祭りに関わるさまざまな演目は、受け継がれるべき貴重な文化遺産です。伝統芸能を支えることは文化の継承・発展につながり、祭りや地域のイベントは人々が交流を図る機会となります。祭りによって人々は集い、共通の目的や喜びを共有することで、地域社会の結束を高める効果も。
社会貢献活動を通じて、私たちは永続的な地域活性化を推進します。みなさまのご支援により、文化の継承や地域社会の発展に寄与できることを心から願っています。


おぎおんさぁの魅力や歴史

鹿児島の夏を彩るおぎおんさぁ(祇園祭)は、江戸時代から400年以上続くとされる伝統的な祭り。
鹿児島3大祭りの諏訪神社の諏訪祭、稲荷神社の流鏑馬、八坂神社の祇園祭の中で、唯一残る貴重な祭りで、平成24年7月に鹿児島市の無形民俗文化財に指定。篤姫の直筆日記には「鶴丸城からおぎおんさぁを見た」との記述があるそう。
現在は大鉾、祇園傘、十二戴女、地方車、そして「七番神輿」を含む大人神輿10基、子供神輿や稚児花籠など、総勢2000名が天文館周辺約2キロを渡御します。


七番神輿の歴史

法人会神輿創成期

平成2年度、第3代高良次男部会長の年、「もっと鹿児島を盛り上げる事業に力を尽くそう」との想いの下「おぎおんさぁ」に初参加しました。鹿児島法人会青年部会が当時頻繁に使用していた中原別荘を拠点とし、当部会会員を中心に毎年100名程で、フォルクスワーゲン社の自動車をベースにした自作の創作神輿を担いでの参加でした。
この創作神輿での参加は平成5年度第6代西原一義部会長の時まで継続されました。


法人会“六”番神輿

平成9年度第10代小園啓一部会長の年、当部会は再びおぎおんさぁに参加することになりました。この時は、当部会単体の事業ではなく、県内の単位会で構成される「県法青連」としての参加でした。参加初年度は県内各地の単位会からの動員も多数あり盛り上がりを見せていましたが、遠方からの動員にはやはり厳しい面も多く、結果として県法青連六番神輿は2年で幕を下ろすことになります。その後、「いつかまた法青会で神輿を上げたい」という想いを持った当部会会員十数名は、温かいご支援をいただき天文館界隈の方々で構成されている三番神輿を5年間に渡り担ぎ続け、後に七番神輿始動の際の中心メンバーとなっていきました。


七番神輿の誕生

時は流れて平成16年度第17代下園輝明部会長の年。その前年に行われた「全国青年の集い鹿児島大会」が無事成功に終わり、会全体に燃え尽き症候群のような空気が漂い始めていた頃、当部会の新たな目玉事業として単独でおぎおんさぁへ参加するという話が持ち上がりました。単年度制の当部会が年度を越えて継続事業をする事に対する懸念の声もあがりましたが、最終的には下園部会長をはじめとした神輿推進派メンバーの熱意に押される形で、この年に新たな法人会神輿がおぎおんさぁの「七番神輿」として立ち上がることになりました。宮城辰彦初代頭の下で始動した七番神輿は笹山雄司二代目頭、尾前克則三代目頭、柳原史郎四代目頭、徳重博之五代目頭、有村大輝六代目頭、土屋太七代目頭に受け継がれ、鹿児島法人会を代表する一大事業へなった今も、更なる発展・進化を続けています。